概要
明知城(あけちじょう)は、美濃国明知(現在の岐阜県恵那市明智町)にあった戦国時代の日本の城(山城)。別名白鷹城(しらたかじょう)。岐阜県指定史跡。なお、美濃国には、可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要である。
明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から南西8kmに位置する遠山十八城のひとつ。標高530mの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えた館5棟があった。
恵那郡明知は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。
戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。そのうち「岩村遠山家」と「苗木遠山家」そしてこの「明知遠山家」を「遠山三家」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。
しかし、やがて美濃国東濃地方は争奪戦の地となり、武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)、織田信長の嫡男の織田信忠、豊臣秀吉の武将の森長可が制圧している。秀吉の死後に長可の弟の森忠政が川中島に移封となり、替わって田丸直昌が入ったが、関ヶ原の戦いで直昌は大坂城城番となり西軍に取り込まれたため、遠山利景が嫡男の遠山方景と共に奪還。
一国一城令による廃城以降は山麓の陣屋にて、明治維新による廃藩置県に至るまで、方景の子孫がこの地を治めた。江戸時代の江戸町奉行・遠山景元(金四郎)は、この六代目である。
なお、明智光秀の生誕の城ともいわれているが、足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、遠山氏の縁戚である可能性は、明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である三宅氏の存在などから考慮はされるものの、生誕地そのものである可能性は低い(江戸時代の初期に著作された書物類から、可児市にある明智長山城である可能性が高いとされる)。
明知城本丸(本陣屋跡)
明知城縄張り図
明知城跡標柱
名称
- 明智城
別名
- 白鷹城
城郭構造
- 平山城
築城主
- 遠山景重
主な城主
- 明知遠山氏
築城年
- 宝治元年(1247年)
遺構
- なし
所在地
- 岐阜県恵那市