概要
大野城は、海南市の西部、海草郡下津町と境を接する藤白山系の尾根で、ひときわ高い峯に位置する中世の山城です。
大野城は、いつ、誰が築いた城なのか、定かではありませんが、 『紀伊続風土記』等の文献によれば、南北朝・室町時代から秀吉が紀州征伐を行った天正13年(1585)ごろまでの約250年間にわたって、武士たちが攻防を繰り返してきた城であると、記されています。
大野城は、南北朝争乱期に仁義荘(現・下津町)を拠点とする南朝方勢力によって築かれたと推定されています。『紀伊続風土記』によると、建武年中(1334~37)には、浅間入道沙弥覚心とその子忠成が、正平年中には保田宗兼が南朝方の守護として在城したとありますが、定かではありません。南北朝期には、北朝方守護として畠山国情が建武3年(1336)、細川氏春が応安2年(1337)、細川業秀天授4年(1378)など、紀伊国の守護として幕府より任命されています。
大野城が地方史上で脚光を浴びてくるのが、山名義理の入城からです。義理は天授4年(1378)、北朝方の紀伊守護に任ぜられ、永徳2年(1382)土丸・藤白城を攻略し、至徳2年(1385)には北野上にある大旗山の篠が城に立籠る楠木正久一族を平定して、紀伊の南朝勢力を鎮圧しました。そして、至徳年中(1384~87)には、府中(現・和歌山市)にあった紀伊国守御所を大野郷へ移転したと伝えられます。山名氏は日本66か国の内11か国守護を山名氏一族で占めていたので、「六分の一衆」と呼ばれ、幕府からはその力を警戒されていました。明徳2年(1391)、山名氏清、満幸ら兄弟が三代将軍足利義満の挑発に乗せられ謀反をおこしました(明徳の乱)。山名義理も大内義弘の軍に追われる運命となり、大野城を去り干潟の浦から船で由良に上陸し、興国寺で剃髪して、それぞれ熊野や伊勢へ落延びて行ったと『明徳記』に記されています。
大内義弘は、明徳の乱の功績により、明徳3年(1392)紀伊国守護に任ぜられ、大野城を守護代陶弘宣に支配させました。大内氏も周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6か国を支配する守護となり、明との貿易で富を蓄え大きな勢力となりましたから、足利義満のねたみを買うことになり応永6年(1399)の「応永の乱」で失脚し、幕府軍の畠山基国等に攻められ堺で敗死しました。
つづいて、 「応永の乱」で功績のあった畠山基国が大内義弘に代わって、紀
伊国守護に任ぜられ、守護代遊佐豊後守入道が大野城に入城しました。その後、畠山氏が紀伊守護職を世襲することになりますが、長禄4年(1460)から文正元年(1466)の間に、畠山政長が守護所を大野郷から広城(有田郡広川町)に移したと伝えられます。「『畠山記』に永禄元年九月遊佐勘鮮由左衛門尉直基大野城を堅む又同三年畠山高政大軍を催し三好家を打嘩け泉河を掌に握るへしと其磨下を招ける云々軍勢二万千四百騎大野城に群参すとあり、其後当城の滅亡せし何れの時なるを詳にせず或云天正年間には鈴木家持城となり後織田氏の為に落城すといへりろ其説諾ひかたし」と、『紀伊続風土記』に記されています。
大野城跡
名称
- 大野城
別名
- なし
城郭構造
- 山城
築城主
- 不明
主な城主
- 浅間氏、保田氏、山名氏
築城年
- 不明
遺構
- 礎石・溝状遺構・土曠・石列・石段
所在地
- 和歌山県海南市