三重県の城
続日本100名城(153番)
国の史跡
概要
多気北畠氏館(たききたばたけしやかた)は、三重県津市にあった日本の城。北畠氏と伊勢国「北畠氏」と伊勢国との関わりは、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の作者としても知られる北畠親房(ちかふさ)が延元元(1336)年に伊勢国田丸城(現在の玉城町田丸)を拠点としたことに始まります。北畠氏は伊勢神宮の存在や南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び吉野朝廷(南朝)と東国との連絡経路等について考慮し、伊勢国に拠点をおいたものと考えられます。
親房自身はやがて常陸国(ひたちのくに)に移りますが、次男顕信(あきのぶ)と三男顕能(あきよし)は伊勢にとどまり、延元3(1338)年に顕能が伊勢国司となります。その後、南伊勢の各拠点が北朝方の攻撃を受け、興国3/康永元(1342)年に田丸城が落城すると、北畠氏はほどなく多気に拠点を移し、霧山城や館を築いたといわれています。
南北朝が統一された後、北畠氏は伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いていきます。往時の北畠氏の勢力範囲は、拠点である多気の地だけにとどまらず、およそ旧一志郡以南の諸地域に及び、隣国である伊賀国や大和国の南部をもその支配下におさめていたといわれます。
また、永正18(1521)年頃の築造と推定される細川高国による北畠氏庭園跡が象徴するように、都からはるかに離れた多気の地に、京都や大和・尾張・美濃などを中心とした様々な文化や品物が流入しており、文化都市的な色彩も強くうかがわれます。
しかし、天正4(1576)年、伊勢国司北畠家も時勢には逆らえず、織田信長の天下布武の動きの中で侵攻を受け、ここに約240年続いた多気北畠氏の歴史は幕を閉じることになりました。
(出典元:津市ホームページ)
礎石建物跡
磁石建物跡が数棟確認されている
北畠氏館跡庭園
日本三大武将庭園で枯山水と池泉回遊式を組み合わせた室町期の名園である
北畠氏顕家像
南北朝から戦国時代この多気の地は伊勢国司であり大名であった北畠氏の本拠地であった
名称
- 多気北畠氏館
築城主
- 北畠氏
主な城主
- 北畠氏
築城年
- 不明
遺構
- 石垣、礎石建物、掘立柱建物跡、
所在地
- 三重県津市
笹竜胆
北畠氏の家紋である