静岡県の城
続日本100名城(145番)
国の史跡

概要

興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。
沼津は戦国時代、今川氏、武田氏、北条氏という三戦国大名による激しい争奪戦が繰り広げられた。支配者の交代も頻繁であり、各勢力の最前線として多くの城郭が築城された。そのような中で興国寺城は各勢力によって盛んに改修が行われていった。
『今川記』、『北条記』によれば、長享元年(1487年)、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍により富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地としたとされている。その後、早雲は、幕府管領・細川政元の足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子・足利茶々丸を将軍・足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移ったとしている。
上記のように興国寺城は長享元年から北条早雲が伊豆に移るまでの間、本拠地としていたというのが定説であるが、北条早雲が興国寺城を本拠地としていたことを示す同時代の史料は見つかっていない。同時代の史料で興国寺城が確認出来るのは、後述する天文18年(1549年)、今川義元が駿河国善得寺(富士市今泉)の末寺である興国寺に、築城用地とするために移転を命じた文書が初出となる。また北条早雲が今川氏から与えられたとされる富士下方十二郷とは富士市北東部に当たり、沼津市の市域となる興国寺城がその範囲に含まれるかどうかについてははっきりとせず、興国寺城は早雲の領地外であった可能性がある。このように長享元年に北条早雲が興国寺城に本拠を定めたことについては確証が持てない。これについて小和田哲男は興国寺城の西隣りにある方形の遺構を早雲期の城館と推定し、伊礼正雄は現城跡のうち三の丸を除いた部分を早雲期に利用していたのではないかと考えている。
この城のある駿東郡の地は、今川・武田・北条各氏が奪い合った。天文5年(1536年)、当時北条氏と敵対関係にあった武田信虎と今川義元が和睦したことに不満をもった北条氏綱が駿東郡に進出し、北条氏の支配下に入った。『甲陽軍鑑』によると翌天文6年(1537年)に興国寺城を守っていた北条方の城番・青地飛騨が武田信虎に寝返って同氏の被官となり、興国寺城はその後行われた今川義元と信虎息女の婚姻に際して化粧料として今川方に引き渡されたというが、定かではない。
天文14年(1545年)今川義元は、武田信玄、上杉憲政らと連合し、駿河と武蔵で同時に北条氏に対して軍事行動を起こした(河越城の戦い、第2次河東一乱)。北条氏の駿河の拠点・長久保城を包囲して攻撃し、武田氏仲介の和睦によって駿東郡を取り戻した。この間興国寺城周辺も戦火にさらされたとみられ、永禄元年(1558年)に今川義元が興国寺城から西に1.4km離れた阿野荘大泉寺(沼津市東井出)に文書を発給して寺領を安堵しているが、その中で「河東一乱の際、大泉寺がたびたび炎上、大破した」ことに触れている。 天文18年(1549年)、今川義元が興国寺及び周辺の田畑を城地とするため、同寺に移転するよう命令する文書を発給しているため、少なくともこの時期に相応規模の城郭の整備がなされたと考えられている。この後、天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟が締結されたため、興国寺城周辺は緊張状態から脱した。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻、北条氏康は今川方の援軍として興津(静岡市清水区)まで兵を出すが、この際に興国寺城を自領に収め、垪和氏続を城番(のち城主)に任命し、垪和は城の改修を実施している。その後、武田信玄は興国寺城を攻撃するものの、氏続は守り切ったことが元亀元年(1570年)1月12日に北条氏政が発給した文書から確認できる。元亀2年(1571年)に甲相同盟が再び成立すると、興国寺城は武田氏に引き渡された。
天正7年(1579年)に武田・北条が再び交戦状況となると、武田勝頼は北条領との国境近くの沼津港に三枚橋城を築城し、城番に重臣の春日信達を配置したため、興国寺城はその後方拠点という位置付けになった。
天正10年(1582年)3月、武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川領となり、徳川家康は、はじめ牧野康成、次いで竹谷松平家の松平清宗を2,000貫で配したが。
天正17年2月5日(1589年3月21日)申刻(現在の15時〜17時)に駿河国で大地震が発生、興国寺城・長久保城・沼津城の塀や2階門が損壊した。
天正18年(1590年)に家康が関東へ入封されると駿河を所領とした中村一氏の家臣・河毛重次が在番した。重次が大泉寺・愛鷹明神に所領を安堵した文書が現存している。
慶長6年(1601年)徳川氏創業の功臣として興国寺城の城主となった。天野康景が1万石で入封し興国寺藩が立藩するも、康景は領内の問題で責めを負いその裁定に不満を募らせて出奔。そのため興国寺藩は改易となり、慶長12年(1607年)3月に廃城となった。
平成7年(1995年)3月17日、国の史跡に指定された。沼津市根古屋にあり、現在復元工事が行われている。
平成29年(2017年)4月6日、「続日本100名城」(145番)に選定された。

(出典元:Wikipedia)

本丸跡

本丸跡

静岡県東部を代表する山城で本丸の背後には天守台と伝えられる高台がある

大空堀

大空堀

三方を浮島沼の湿地帯に囲まれ深い大空堀で尾根と城とが分断されていた

天守台

天守台

天守台には建物の基礎に使った石が点在している

名称

    • 興国寺城

別名

    • 根古屋城

城郭構造

    • 連郭式平山城

築城主

    • 不明

主な城主

    • 北条氏、武田氏、松平氏、中村氏、天野氏

築城年

    • 15世紀後期

遺構

    • 石垣、土塁、空堀、曲輪、天守台

所在地

    • 静岡県沼津市

三つ盛鱗

三つ盛鱗
後北条氏の家紋である