概要
金山城(かねやまじょう)は美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市兼山)に存在した日本の城(山城)。城跡は「美濃金山城跡」(みのかねやまじょうあと)として、2013年に国の史跡に指定されている。
城郭の形式は梯郭式山城。「兼山城」と表記されることが多い。1967年に岐阜県指定史跡に指定され、2013年に国の史跡に指定された。
標高約277mの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。
天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。しかし正義は天文17年(1548年)に近隣の久々利城主土岐悪五郎に久々利城へ招待された際に討たれ、城主が一時不在となった。
その後織田信長が美濃国を領地としたことにともない、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称した。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も天筒山城で討ち死にしたため、次男の長可が跡を継ぎ城主となった。
天正10年(1582年)長可が信濃国川中島に転封されると弟の森成利が入るが成利は同年中に本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となる。
慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたという。
兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、昭和36年(1961年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
平成18年(2006年)可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行った。当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(143番)に選定された。
出丸跡
破城跡
虎口
名称
- 金山城 (美濃国)
別名
- 兼山城、鳥峰城、鳥ヶ峰城
城郭構造
- 梯郭式山城
築城主
- 斎藤正義
主な城主
- 斉藤氏、森氏、石川氏
築城年
- 天文6年(1537年)
遺構
- 移築門、石垣、土塁、堀、井戸跡、石碑
所在地
- 岐阜県可児市