高天神城
東海四県の城
国の史跡
続日本100名城(147番)

概要

高天神城(たかてんじんじょう)は、遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)にあった日本の城である。
小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。国の史跡に指定されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定された。
天正3年(1575年)5月、武田氏は長篠の戦いで大きな損害を受ける。さらに上杉謙信没後に発生した御館の乱において、上杉景勝の和睦要請に応じる。勝頼は北条方の上杉景虎との間に和睦を成立させるが、勝頼の撤兵中に景勝・景虎間の和睦が破綻し、景虎は滅亡する。これにより武田氏と北条氏の甲相同盟が破綻し、勝頼は景勝との同盟を強化して甲越同盟を結ぶ。
こうした外交関係の変化により、武田氏は駿河方面において西の織田氏・東の北条氏を同時に対応することとなる。この間、勝頼は高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、城代として今川氏の旧臣である岡部元信(真幸)を任命している。
一方、徳川家康は光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで大井川沿いの補給路を封じた。さらに付城として横須賀城など6箇所の拠点を築いて締め付けを強化し、高天神城は利点の裏で維持のための補給線が長く負担も大きなものとなっていった。そして天正8年(1580年)9月、徳川軍は満を持して高天神城を攻撃した(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。勝頼も援軍を送ろうとするが、東西に敵を抱える状況でそれがかなわない状況が続いた。ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが討死して高天神城は陥落した。わずかに生き残った城兵は助命されたが、武者奉行孕石元泰のみが切腹させられた。これは、徳川家康が今川氏の人質であった時代に、孕石が人質であった彼に辛く当たったことを遺恨に思ってのことであった。また、西側の尾根を伝って軍監の横田尹松が脱出に成功し、甲斐(山梨県)の勝頼に落城の事実を報告した(この脱出道は現在も残っている)。
なお、この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望が致命的に低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれ、『信長公記』でもことさらにそのあたりを強調する記述となっている。ただし、織田信長が籠城側の降伏を拒否するよう家康に指示した書簡が現在残っている。このことから、籠城側が既に早い時点で降伏の意思を家康に伝えていたにもかかわらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、援軍の出せない勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないかとの指摘がある。
落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはなかった。城の山頂に高天神社があったために、山自体は地元のシンボル的存在としての役割を継続することとなった。

(出典元:Wikipedia)

高天神城址

高天神城址

戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた山城である
高天神上の碑

高天神城の碑

高天神城北側入口にある碑である
高天神城跡看板

高天神城跡看板

太平洋戦争前の時期に模擬天守が建造されたが落雷で焼失し現在はコンクリートの土台のみが残っている

名称

    • 高天神城

別名

    • 鶴舞城

城郭構造

    • 連郭式山城

築城主

    • 不明

主な城主

    • 福島氏、小笠原氏、岡部氏、武田氏

築城年

    • 16世紀初頭

遺構

    • 曲輪、土塁

所在地

    • 静岡県掛川市