熊本県の城
国の史跡
概要
田中城(たなかじょう)は、別名を和仁城とも呼ばれ、中世に熊本県旧三加和町一帯を支配した肥後国の国人和仁氏が本拠とした城。現在の熊本県玉名郡和水町和仁に位置する。天正15年(1587年)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城のひとつである。
「田中城跡」の名称で国の史跡に指定されている。
肥後国では菊池氏が衰退した後、戦国期は国人割拠状態が続き和仁氏も肥後国の国人の一つだった。和仁氏は古代豪族和珥氏の末裔とされるが和仁氏が滅んでしまったため、何時から肥後に土着したかその歴史は不明である。
九州征伐後の天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉により佐々成政が肥後国主に任じられ検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。和仁氏当主の和仁親実もこの動きに呼応し、弟の親範と親宗および姉婿の辺春親行と共に田中城の守備を固めた。佐々成政は肥後の各地で離反した国人を単独で鎮圧できず援兵を請い、豊臣秀吉は同年9月、西国大名に出兵を命じ一揆の鎮圧に向かわせた。
田中城に対しては、小早川秀包を主将として、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など計一万余の軍勢が振り向けられ10月28日に到着。城の周囲に二重の柵を築いて包囲戦に入った。和仁氏は十倍する攻め手からよく城を守ったが、安国寺恵瓊による内応工作もあり、12月5日ついに落城して和仁氏は滅ぼされた。
(出典元:Wikipedia)
田中城祉
本丸跡には和仁三兄弟の石像が建ち公園として整備されていてる
出丸
物見矢倉跡とよばれている高台が南・北・西の三ヶ所残っている
西捨曲輪
和仁川流域の水田地帯を臨むように伸びた舌状台地がありこの台地上に田中城が形成されている
名称
- 田中城
別名
- 和仁城、鰐城
築城主
- 和仁氏
築城年
- 不明
遺構
- 空掘
所在地
- 熊本県玉名郡和水町