山口県の城
概要
山口城(やまぐちじょう)は、周防国の山口(現在の山口県山口市滝町)にあった日本の城跡である。山口屋形・山口政庁・山口政事堂などとも呼ばれていた。表門(旧山口藩庁門)など一部が現存する。
大内氏が築城した高嶺城(こうのみねじょう)跡のある山口の一露山麓に、長州藩(毛利氏)の13代毛利敬親の居城として築かれた城。
慶長5年(1600年)以降、萩城が周防・長門国36万石を所領した毛利氏の居城であったが、幕末の変動に伴う有事に備えて、下関や瀬戸内海側への指揮がしやすい拠点として、山口に築城された。なお、かつて関ヶ原の戦いに敗れて広島城を失った毛利氏が、防長移封後の新たな居城建設候補地のひとつとして、山口(高嶺城)を挙げている(江戸幕府が萩への築城を指示したのは、要衝の地である山口ではなく僻地である萩に押し込めたと一般的に言われているが、外国艦隊との戦いに備えて山口への移転を行った山口移鎮の経緯から山口城の築城は長年の毛利氏の悲願という見解は成り立たないともされる)。
天守の無い平城であったが、高嶺城を詰城としている。現存する絵図によると、大砲を備えた西洋式城郭(八角の稜堡式城郭)の特徴があったとされる。また、周囲には水堀と腰巻型の石垣を築き、萩城御殿を解体移築した御殿が建てられていた(萩城の御殿や禁門の変後に没収された江戸桜田藩邸を解体したものが移築されており、幕府には「屋形の移設」として申請されている)。性質としては居館であるが、広義の城郭としては毛利氏が築いた最後の城となる。
長州藩内では山口屋形(やまぐちやかた)、藩外からは山口城と呼ばれた。
(出典元:Wikipedia)
山口城表門
一間一戸脇門付薬医門で城門らしい風格である
旧山口藩庁門案内板
この門は藩庁の正門で山口県の重要文化財である
旧山口藩庁門石碑
外には堀があり鯉が泳いでいる
名称
- 山口城
別名
- 山口屋形、山口政庁、山口政事堂
城郭構造
- 平城
築城主
- 毛利敬親
主な城主
- 毛利氏
築城年
- 元治元年(1864年)
遺構
- 水堀、表門
所在地
- 山口県山口市
一文字三つ星
毛利氏の家紋の一例である