概要
赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は、赤穂城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」などと表記するものもあった。
江戸時代、赤穂藩の藩庁が置かれた。 元和偃武の後、本格築城された城郭である。縄張りは変形輪郭式。本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。長直の招きで、1,000石の厚遇で江戸の藩士に兵学を教えていた山鹿素行が32歳の時、赤穂に7カ月滞在して縄張りについて助言。これにより二の丸周辺の手直しがされた。それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素なものであった。素行は後日、幕府の御用学問であった朱子学を批判したことで流罪になりその赤穂城内に住んだ。
赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。
市内を流れる千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていた。日本三大上水道の一つに数えられている。
明治時代前期に城内の建物は破却され石垣と堀のみが残っていた。昭和中期から平成にかけて櫓・門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二の丸庭園の再建が進められている。また、1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、本丸内に西洋洋館風の赤穂高校(旧制赤穂中学)の校舎が建っていた。現在、本丸に建物はないが、往時の建物の間取りを原寸で地面に再現してあり、その規模や暮らしぶりの一端を窺うことができる。
復元された三の丸隅櫓
復元された本丸門
復元された本丸門
名称
- 赤穂城
別名
- 加里屋城、大鷹城
城郭構造
- 変形輪郭式平城
築城主
- 岡光広
主な城主
- 池田氏、浅野氏、森氏
築城年
- 1873年(明治6年)
江戸期石高
- 赤穂藩・浅野氏5万3千石
遺構
- 石垣、堀
所在地
- 兵庫県赤穂市