概要
飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2(1458)年、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。1484年に日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配となった。
伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により再び飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。
祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東氏・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例と言えよう。
再建された大手門
石段
歴史資料館前
名称
- 飫肥城
別名
- 飫肥院
城郭構造
- 群郭式平山城
築城主
- 土持氏
主な城主
- 土持氏、新納氏、伊東氏
築城年
- 戦国初期
江戸期石高
- 飫肥藩・伊東氏5万7千石
遺構
- 石垣
所在地
- 宮崎県日南市