一万石以上の城
県指定史跡
概要
与板城(よいたじょう)は越後国、現在の新潟県長岡市与板地域にあった城。
- 本与板城 - 直江氏の当初の居城。後の与板城と区別するため本与板城と呼ばれている。
- 与板城 (戦国時代) - 直江景綱が居城を本与板城から移した。
- 与板陣屋 - 与板藩の藩庁であった与板陣屋が文化元年(1804年)、井伊直朗の時に城主格となり城に昇格した。
直江景綱の居城の説明としては:
長尾家家臣である直江家の居城で、元は2kmほど離れた本与板城(新潟県長岡市与板町本与板)を居城としていたが、天正年間(年数は不明)の直江景綱の時代に築城、移転した。なお、この時に本与板城が廃城になったのか、以降も暫く使用していたのかは不明。
景綱の養嗣子、信綱の代に勃発した御館の乱に於いて直江家は景勝派に属し、同じく景勝派であった黒滝城の山岸光祐や赤田城の斎藤朝信等と共に景虎派の本庄秀綱の栃尾城に対しての備えや攻撃を行っている。
また、この乱の後に城主信綱は恩賞に不満を持った毛利秀広によって春日山城にて殺害。直江家には嫡子がいなかったために断絶となるところ、景勝が名門直江家の断絶を惜しみ、樋口兼続を未亡人のお船の方と結婚させることで家名が残ることとなり、引き続き直江家の居城として使用された。
慶長3年(1598年)に上杉家が会津に転封となったため、与板城は廃城となった。
遺構は、曲輪跡、堀切・土塁・井戸跡、お船の方が用いた清水(おせん清水)などが残る。
(出典元:Wikipedia)
八坂神社鳥居
山頂までは30分ほどとのことである(雪がない場合)
案内板
直江城として説明が記されている
登り口
登山道の入口は八坂神社脇にある
名称
- 与板城、与板陣屋、本与坂城(それぞれの場所は異なる)
城郭構造
- 山城
築城主
- 井伊直朗
主な城主
- 井伊氏
築城年
- 文政6年(1823年)
江戸期石高
- 与板藩・井伊氏2万石
遺構
- 曲輪跡、堀切・土塁・井戸跡
所在地
- 新潟県長岡市
井伊橘
井伊氏の家紋である