概要
高山祭(たかやままつり)は、岐阜県高山市で毎年開催される、4月14~15日の日枝神社例祭「春の山王祭」と、10月9~10日の櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」の総称である。
京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに数えられる。また、京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大美祭とされる。
山王祭は元禄5年(1692年)の記録に40年前から3年ごとに祭礼が行われていたとの記録があることから、その歴史は金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができる。ただし、この時点では屋台が曳行されたとの記録はない。屋台の創建はもっとも古い屋台の創建が宝暦年間であることから、屋台が祭に加わったのはそれ以降と考えられる。山王祭の氏子は安川通り以南の住民で、屋台組の他に神輿組と呼ばれる組織が祭に奉仕しており、獅子舞は神輿組の一つである森下組の担当で、闘鶏楽は片野組が担当している。統括するのは各屋台組が1年ごとに持ち回りで務める宮本で、かつては青龍台組が独占していた。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞、大榊などと練り歩く祭行列は山王祭では御巡幸と称し、正徳6年(1716年)まで遡ることができる。獅子舞は昭和49年(1949年)に兀下徳之助が考案したものに変更されており、それ以前のものは兵助獅子と称した。また、夜に提灯をつけた屋台の曳行は夜祭と呼ばれる。
八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古く、その後享保3年に4台の屋台(猩々、高砂、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦)を曳いたとの記録がある。八幡祭りこのときは屋台の他に現在の祭りでは見られない笠鉾2基も行列に加わっている。明和5年(1768年)には俄が行われていたとの記録もある。寛政8年(1796年)に高山の安川通り北側で大火が起き、屋台が多数焼失している。更に明治8年(1875年)に4台の屋台が火災により失われている。八幡祭を取り仕切るのは4つの屋台組から一つずつ選ばれる年行司で、更に別の4つの屋台組から副年行司が選ばれる。年行司及び副年行司を出す屋台組は1年ごとに変わる。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞、大榊などと練り歩く祭行列は八幡祭では御神幸と称する。獅子舞は左京獅子と呼ばれ、その歴史は延宝年間まで遡るとされる。また、夜に提灯をつけた屋台の曳行は宵祭と呼ばれる。
初期の屋台は祭りのたびに建造と解体を繰り返していたため50年ほどで部品が劣化して新造していたが、後に屋台蔵が建造されて屋台の解体をせずに済むようになったことで屋台の寿命が延びて高価な彫刻などが取り付けられるようになった。江戸時代には高山の町に多くの豪商がおり、京都から織物や金具を買い付けて取り付けるなどしてその華やかさを競った。 第二次世界大戦後、高山祭を支えていた豪商が没落して屋台の維持管理が困難になったことから山王祭と八幡祭の屋台組が合同して昭和26年(1951年)に高山屋台保存会を結成。これ以降二つの祭りは高山祭と呼ばれて文化財として一括して扱われるようになるが、それぞれの祭りを担う屋台組や組織はそれぞれ独立した別のものである。
昭和43年(1968年)に桜山八幡神社境内に高山屋台会館が竣工し、八幡祭の屋台が通年で見られるようになった。この屋台会館の収入は各屋台の維持費に充てられている。
1960年(昭和35年)6月9日に「高山祭屋台」23台が重要有形民俗文化財に、1979年(昭和54年)2月3日に「高山祭の屋台行事」が重要無形民俗文化財に指定された。同じ行事に関連して、国の重要有形民俗文化財・重要無形民俗文化財の両方の指定対象となっているものは日本全国で5例のみで、その内の1例である。さらに、平成28年12月1日、エチオピアのアディスアベバで開催されていたユネスコ無形文化遺産条約第11回政府間委員会において、「高山祭の屋台行事」を含む日本の「山・鉾・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産代表一覧の記載(ユネスコ無形文化遺産登録)が決定した。
4月、10月
岐阜県高山市