愛知県の城
概要
拳母城(ころもじょう)は、愛知県豊田市にある日本の城である。
挙母藩の藩庁が置かれた。通称は七州城で正式には地名の通り挙母城(ころもじょう)という。
挙母には、鎌倉時代の1309年に中條景長によって金谷城が築かれたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封した。康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロメートルほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから俗に桜城といった。寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修を計画し着手したが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」といった。
明治以降は学校敷地となり、一部が豊田市立童子山小学校(移転)や愛知県立豊田東高等学校(移転)として利用され、現在は豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されている。
遺構としては、豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、1977年に隅櫓が復興されている。隅櫓に隣接する書院は「又日亭」(ゆうじつてい)といい、明治まで寺部城の城内にあった書院である。明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定であったが、1977年、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築された。また、挙母祭りの山車蔵に、城の建物の解体部材を転用したものがある。 又、豊田市内の個人宅に、蔵を移築したものと伝承のある建物が現存している。
(出典元:Wikipedia)
復興隅櫓
江戸期には挙母藩の藩庁が置かれた
復興隅櫓
現在の豊田市美術館敷地内に存在する
拳母城址之碑
子爵内藤政光書と記されている
名称
- 拳母城
別名
- 七州城
城郭構造
- 平山城
築城主
- 内藤学文
主な城主
- 内藤氏
築城年
- 天明元年(1782年)
江戸期石高
- 拳母藩・内藤氏2万石
遺構
- 石垣
所在地
- 愛知県豊田市
藤紋の例
内藤氏の家紋例である