佐土原城
一万石以上の城
国の史跡

概要

佐土原城(さどわらじょう)は、宮崎県宮崎市にある日本の城である。
江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。
佐土原城跡の名称で2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された。
14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。
1427年(応永34年)頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。 さらに1480年(文明12年)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。伊東四十八城の一つに位置づけられた。
1536年(天文5年)に焼失。(1542年(天文11年)から1543年(天文12年))に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。西にある伊東家の居城都於郡城と並ぶほどの城に整備される。
その後、伊東氏は島津義久に押され豊後国に一時逃れた際、義久の実弟島津家久が城主として入った(高城の合戦)。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉が九州に侵攻、島津義久は秀吉の傘下に入る。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は戦死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になったが、その後1603年(慶長8年)に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。
1625年(寛永2年)に二代藩主島津忠興の代に、山の上の建物を壊して、麓にある二の丸に館を移した。この際に正式名称が本家の鶴丸城と同様に「鶴」の文字をおいた松鶴城(しょうかくじょう)となる(通称は佐土原城)。
1870年(明治3年)に広瀬(現・宮崎市佐土原町広瀬)に移転したため、建造物は全て破却された。ちなみに移転先の広瀬城も廃藩置県のため未完のまま取り壊された。
1993年(平成5年)、発掘調査の成果をもとに二の丸御殿の一部が復元された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(196番)に選定された。

(出典元:Wikipedia)

天守台跡

発掘調査から佐土原城には天守に当たる建物があったとされている

本丸跡

山の中の切り開かれた場所にある

石垣

多くはないが石垣が残っている

名称

    • 佐土原城

別名

    • 松鶴城、鶴松城、田島城

城郭構造

    • 山城

築城主

    • 田島休助

主な城主

    • 田島氏、伊東氏、島津氏

築城年

    • 建武年間(1334年〜1336年)

江戸期石高

    • 佐土原藩・島津氏3万石

遺構

    • 曲輪、土塁、空堀、天守台

所在地

    • 宮崎県宮崎市

十文字

島津氏の家紋の一例である